2017年11月7日火曜日

To learn is to change --- 学ぶことは、変わること。



Line で発行しているメルマガ『Blue-m 通信』で、エピソードを書かせて頂きました、アメジストエレスチャル。1キロ弱ありまして、このファセットの不思議な波紋状の侵食痕ゆえか、ベータを思わせる両垂形状ゆえか、周囲にエネルギーの波が広がり、近くに居ると目がチカチカ?します。

最近はいろいろと想いが巡るうちに、うちの石たちを紹介しようではないかという気になりました。石に寄せてのお話はまた後ほどすることにして、先日自分の「チベット僧院での過去生」を書いたら、思い出して、久しぶりに見ていた映画についてお話ししようと思います。

1993年公開、『ラストエンペラー』他で著名なイタリアのベルナルド・ベルトルッチ監督作品。当時リアルタイムで見て、印象深い映画のひとつでした。去年、星巫女クラスのDVD 鑑賞(映画分析)で取り上げようかな?と思って20年以上のブランクを経てDVD を買って見てみたところ、やはり良い映画だなと思って。星巫女では結局取り上げませんでしたが、また1年振りに見て、いろいろと感じ入るところ、新たに気づくことなども。

ベルトルッチ監督はヴィジュアルに非常にこだわり、イタリアの監督らしいシュールで美しい映像を撮る監督です。坂本龍一さん(音楽)と組んで、「東洋3部作」として『ラストエンペラー』『シェルタリングスカイ』に続いて制作されたのがこちらの、チベット仏教を扱った『リトルブッダ』でした。

制作された当時、アメリカでホットな都市として注目されていたシアトルを、ブルー系のフィルターで写し、チベット・・は占領下なので、ラマたちの亡命先であるブータンやネパールのカトマンドゥ、僧院などを赤で。そして作中に挟まれる3000年前のブッダの物語を黄色&ゴールド系の色で描くという、美術効果としても非常に引き込まれる美しさを放つ作品です。「欧米の子供たちでも仏教の特徴を理解できるようなシンプルな物語に」という監督のコンセプト通り、ストーリーはとても分かりやすく、「三部作」の他の2作とは、そういう点では全く別物。

少し斜に構えていたというか、難しいものや、スパイシーでややデカダンなものを望んでいた21歳当時の私には、物足りなく感じたものでしたが・・・監督があえて易しいタッチで作った映画の中に、深いものがたくさん込められているということに、20年以上を経た今、素直に感銘を受けました。改めて・・・難しいものをシンプルに、易しく語ること、言葉や入り組んだ作りではなく、色や音楽やちょっとしたカメラワークや撮影の視点によって、大人向けの重厚感のある要素が表現されていることに、今ようやく気づくのでした。すごいな、イタリア、スペイン・・の映画は独特の濃密な大人っぽさを感じますが、歴史の重みに由来する、国民性もあるのかもしれない。

うん、、ベルトルッチ監督は、当時・・20代前半から好きで、よく見ていました。この作品にまつわるインタビューもどこかで見ましたが、劇中劇のシッダールタを演じているキアヌ・リーブスは、水とオレンジだけを食すというダイエットをして、かなり減量して、覚醒前の修行中のやせ細った行者姿のブッダを演じています。キアヌのブッダの美しさも見どころのひとつ。

 こちらはBefore で、まだ世間の世知辛さを知らない、若い王子のシッダールタ。その後、この世に老・病・死があることを知り、ショックを受けます。そして、人々をそれらの苦しみから解放する者に自分がなるのだと感じ、お城を出て修行者となる。


こちらがAfter。菩提樹の前で瞑想を重ねていると、数々の試練が来る。魔王の化身したものが次々と、瞑想の邪魔をしに来るのです。そして最後の最後で現れたのが、自身と同じ姿をした自身の「エゴセルフ」でした。

ブッダ:「やっと会えた。建築者よ。お前の家はもう要らない。」
自我:「私がお前の家だ。お前は私の中に住む。」
ブッダ:「お前は幻想である。大地が私の証人である・・・」

このやり取りの後、ブッダと同じ姿をしていた「自我」は魔王の姿に戻り、あえなく退散し消えていきます。自我の消滅・・・これにより彼は覚醒を果たす。

そこで、ラマ僧の声が子供たちに読み聞かせる形で、ナレーションが入ります。

『こうして彼は彼自身の感情、つまり喜びや苦しみや、他人に左右されない安らぎを得たのだ。』

悟り・・覚醒という難しい事柄を子供向けに、それも仏教の下知識の無い欧米の子供にも分かるように、そのように表現している。お陰で、悟りや覚醒というと引いてしまう我々、まだまだこれからのメタフィジストたちにとっても、響くのではないでしょうか。感情、、苦しみだけを排除するのではなく、「喜びや苦しみでアップダウンする感情という仕組み」そのものからの解脱、ということ。そうであれば幻想の世界で一喜一憂したり他者や周囲を気にすることも無く存在する者となる。

サンスクリットで自我は「アハンカーラ」、そのままの意味は「私を作るもの」。これが「建築者」なのでしょう。映画ではそのまま「Architect」と呼びかけていました。

それから、もう一つ、今回改めて見ていて強く響いた言葉がありました。それが今日の記事のタイトル。「to learn is to change」(学ぶことは変わることである)と、シッダールタが他の修行者たちに語りかける場面があります。けれど頑なに自分たちのやり方を続けようとする修行者たちは、ブッダが悟りを諦めたのだと思い、ダメだこりゃと去って行く。

学ぶことは、変わること。

その通りだと思います。学び続けることは、変わり続けること。固定されたメソッドや、人から提示された知識ではなく、基本のエッセンスを身につけ、その基礎を繰り返しながら、常に、自分自身で体験し、気づき、自己が幻想として仕掛けている制限を外していく。=変化していく。その積み重ねで、現実がその都度、創造され、展開していく。変化を起こしたエネルギーは自身の力となって、蓄積され、また自分を強くしていく。

自分が強くなれば、知恵が深まれば、自分の居る現実、自分の見る現象・・正確には、単に現象ではなく現象を識別する自分自身の意識が、変わっていく。世界の意味が変わっていく。

変わることを恐れていては、学べない。

学んだとしても、学びきれない。頭での学びで終わってしまい、知恵にならない。エネルギーから、現実レベルまで、変容を響かせることにならない。ただ、知識の引き出しが増えていくだけ。

まるで雪がたくさん降り積もった日の朝に不意に訪れた晴天のような、清々しさと共に見終えました。おすすめです。宜しければ、見てみて下さい。

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最近思ったこと。

そもそも人が人と関わるとは、エネルギーの奪い合いそのものだと言えるのかも。親子だってそう。夫婦だって。赤ちゃんなんてミルクを飲むのだから、本当にヴァンパイア。母乳の原料は、お母さんの血液なんだもの。。。(笑)

こんなことがまた、見え過ぎてしまい、「この世界の切なさ」を改めて感じたのでした。自分からはせめて、人から、奪わずに生きていられるようにと、いかにも・・ではなく、一見わからないやりとりからも、相手からエネルギーを自分が取ってしまうようなことにならないよう。

そして個人的に思うのは、いわゆるsustainable、持続可能な世界をこれから整えていくには、奪い合うことで成り立っている今の人間社会のあり方ではなく、与え合い、恵み合う仕組みを作っていかなくてはと。ただ、道のりはそんなに簡単ではなく、日頃の生活、普通の人々の普通の世界の中にも、「奪い合い」がごく当然のように浸透していると感じます。ビジネスや、肉食や、家族のあり方など、あらゆること。相手の為を思って機能すること=利他の精神で積み上げられた社会にならない限りは、「奪い合っている」人類のあり方が終わらないと思うのです。

アメジストエレスチャルがパワフルなのでしょう。
秘蔵していて、誰にも見せたことのない、レーザーをお見せしたくなりました。



非常に頼もしく、居るだけで心強いマスターのひとつです。消えることのない光を灯し続けてくれるかのようです。

今日、ある人が言っていました。
「野菜は、どこに持っていって種を植えても同じ野菜が出来るなんて、凄いな」

そう。種はソウルシード。
人の魂は変えられない。エゴがどのような家を建て、どのような装飾をし、家の主人のような振りをしても。ソウルはずっと同じソウル。同じ光を放ち続ける。雲に隠されても、太陽は、太陽。ずっとそこに在る。


今日はこのくらいで。
リュミエールでは神殿ソフィア始め、up作業を進めています。また覗いて下さい^^

各クラスや来年度の募集状況など、そろそろ出したいと思いますが、また次回に。

Love and Grace,
Amari