2015年10月2日金曜日

好きな映画がひとつ増えた『NINE』-- クリエイティブ人種の苦悩とセクシャリティ。

こんにちは。
昨夜遅くの台風、暴風雨が凄かったですネ〜。

今回のスーパームーンはポジティブなエナジーがパワフルでしたが、そこからのさっそくの各自の作り替えや、せっかく受けとったシフトのウェーブを活用するにはまだここが着いてこれてないよね、という部分、遅れをとっているチャクラを集中して喝を入れるためのデトックス&アジャストが早速作動しているようで、地表世界全体も同じくで、間を入れずに台風の暴風雨が通過していくあたり、人間界の集合意識と、地表世界の自然界全体が、一緒に月からの波長を受けとっていることが分かり易く、一体感を感じられました・・微笑。

ちなみに月がそのウェーブを送っているのではなく、地球「内界」からの衛星放送のような感じでした。

さて。かなり仕事が切羽詰まった忙しさだったのですが、数日前に久しぶりに「ちょっと一息つけそう」な時間が出来たので(休日というものは自分には無いというのが基本姿勢なのですが、たまに数時間単位でフリーな感覚を味わうのです^^)ではではシネマタイム〜・・ということで、選んだのがこちら、『シカゴ』で有名なロブ・マーシャル監督の『NINE』でした。

アメリカ映画(2009年公開)



これ、実は前にブログに書いていた『リトルミスサンシャイン』とか、オーランド主演の『エリザベスタウン』や、伝記映画『リンカーン』とともに今年の夏にDVDを買っていたのですが・・・アマゾンのレビューで目立っていたのが、豪華な女優陣が舞台のショー的に華麗に唄って踊っていて「ストーリーがない」「意味が分からない」「←そりゃそうでしょ、この映画はオンナの美しさをめでる映画ですから」とか。。いつもレビューの中のネガティブコメントは、実際に自分で見てみると全く違っていることが多いのですが、こんな私でもついついマインドゆえにそれらの印象で後回しにしていました。

『リンカーン』と同じダニエル・デイ・ルイス主演ゆえに、アマゾンさんにお薦めされた訳ですが、ミュージカルも舞台も好きだし、マリオン・コティヤールやジュディ・デンチ、ニコール・キッドマンにペネロベ・クルス、そして特別出演のソフィア・ローレンと・・・確かに凄い女優陣なので、彼女らが唄って踊るならばぜひ見たいと、買っておいたのでした。が、「女を愛でる映画で、内容が無い」がインプットされ、よほど、気分が向いた時でいいやと後回しに。

気分が向いたのかどうなのか分からないけど、ストックしていた「まだ見ていない」DVDがなくなったので、まあいいかなと見てみましたら、、「凄く好き」な一作になりました。これを見て人は、「内容がない」「単に女を愛でる映画」だと思ってしまうんですね???そのほうが、びっくりです。私の視点で感じたことを綴ってみます。

イタリアを代表するマエストロ、フェデリコ・フェリーニ監督の自伝的映画「8 1/2」を舞台化したブロードウェイミュージカルを、更に映画化したものだそう。ヒットしていますから、見た方も多いでしょうね。私はなぜかこれまで一度も興味が湧かなかったのですが、実際に見てみると、フィギュアスケートの村上佳菜子ちゃんのエキシビジョンで、椅子とタンバリンを持ってのセクシーなダンスを思いだしました、ああ、これだったのか。と今更に(笑)。

さてさて、見始めた最初のオープニングの舞台シーンからすぐに「あ、好き」と思いました。舞台版を見ていないのでどこからどこまでが映画版としての個性なのか分からないけど、舞台セットでの、主人公の映画監督グイド(ダニエル・デイ・ルイス)の新作映画に向けての産みの苦しみの妄想から、素晴らしい〜と引き込まれました。ミュージカルそのものという感じ。こちら↓

 

ダニエルを、ニコールとペネロペ、マリオン、ジュディ・デンチにソフィア・ローレンが囲んでいるというだけでも凄いシーンですよネ・・

ストーリーとしても、巨匠としてマスコミや周囲からの期待に押しつぶされそうになりながら新作の案がまったく浮かばずに心理的に追いつめられ、自分の弱さの中へどんどん入っていくスランプのグイドの精神描写で、そこで生まれていく、彼を取り巻く女性たちの心理で展開していくミュージカル的な楽曲のシーン(映画では彼の妄想として展開しているような演出)は、どこまでもスタイリッシュであると同時に、女性たちの心理としても的を得ている。女性として見ていてとても共感し、決してこれは男性側からの勘違い路線ではない(たまにそういう小説や映画ってありますよね)。

それでいて、グイドのクリエイターとしてどうにもならない苦悩と、同じ第二チャクラでしょうね、切羽詰まった時に愛人との性愛や、ママ(故人)の愛を求めたり、女性=創作 のテーマが繋がってその中で苦しんで悪あがきをし、ますます周囲の女性たちを苦しめ、結果的に自分の現実が崩壊していくという流れも、人間の・・男と女の・・特に創作をする芸術家としての男のサガをうまく表していて、どちらにも(私は)共感できた。

それにいつも思うのですが、ダニエルは本当に見ている人をその主体の中に引き込む演技をする天性の役者だと思います。二十代の頃に映画をよく見ていた時代「エイジオブイノセント」など好きでした。映画を見ているというのを忘れさせ、彼の中にどんどん一体化していくような、見ていると他人と思えなくなるような引力が、自然体で才能として備わっている俳優さんだと思います。映画の冒頭の記者会見のシーンで、あんなにイギリス紳士風の印象のある人が、既にイタリア人映画監督にみえるのですから、凄いです。

それでですネエ。。
この映画の中には、グイドを愛してしまっている女性たちが、既に亡くなっていて彼のイマジネーションの中で登場し彼に語り掛けてくるママ(ソフィア・ローレン)以外に、6人居るのですよね〜〜。凄い。さすがイタリア。というか、成功しているマエストロ故なのでしょうか。もてますね。。笑 きっと世の男性諸君は・・映画監督で成功して、主演女優の一人を妻にし家庭に入ってもらい安定した上で、永遠のミューズに焦がれて新人女優を発掘しつづけ、その都度、愛人にしていくような展開って永遠の夢なんでしょうね。。。笑

その六人の中の一人、サラギーナは、彼がまだ9歳の時に邂逅して恐らく彼のエロスの象徴となって記憶に刻み込まれている、海辺の廃墟に住んでいた娼婦。彼女は白黒映像で、記憶として出て来ますので、「彼を愛する女性」という訳ではない。この映画や舞台版の主題歌のようになっている「BE ITALIA」を唄って、彼の第二チャクラのパワーを鼓舞するいわばセクシャリティの女神のような形で登場します。演じたのはグラミー歌手であるファーギーで、本人が語る演じた時のコンセプトは「どこまでも泥臭く、まったく洗練されていない娼婦、獣のような女性。」つまり、男性にとってのひたすらの「肉体的な性」の象徴。

一方で、ニコール・キッドマンが、並みいる女優陣が希望する中でゲットしたという役であるクラウディアは、グイドの監督作品で常にミューズ、主演女優を演じる女性で。私は彼女が、グイドとの決別を唄う、静かな2人だけの夜のローマのシーンがとてもとても、美しく悲しく、気に入りました。その楽曲のシーンの中でクラウディアは、「女神は人間ではないのよ」「貴方が描こうとしている(新作の中で女神に恋をし女神に愛される)男性は、本当の愛を知らない子供なのよ(=グイドのことをそうだと暗に言っているのでしょう)」そして、「悲しいけれど、さようならね」と言って、去っていきます。

他の女性たちが全身全霊、身体も声もボルテージを上げて唄って踊っている中で、クラウディアはとても静かに、囁くように唄うのがまた、美しくも切なくて。本当はひとりの人間の女性として彼に愛されたかったところを、グイドはひたすら、自分の作品の中のミューズ「女神」として、精神の世界で愛でつづけ、男の理想が描いた女神を体現する女優としての彼女を、崇拝している。グイドのセリフ、「君に対して衝動を感じることがあっても、それを抑えた・・(つまり本当に女神だからそのままとっておきたかった)」== は、本当は女神ではなく生身の人間であるクラウディアにとっては、嬉しいことなどなく、ただ悲しいだけの事実として聞き流し、「私は女神に恋する男のほうになりたいわ」と呟く。そうして去って行きます。

以前は人気女優で、彼のために引退して家庭に入っている生真面目で清楚な妻であるルイザ(マリオン・コティヤール)がいよいよ切れて、それこそ娼婦のようになって歌い出すシーン(もちろんこれはグイドの想像の顕われですが)は、気持ち良いくらいですね。。。

クラウディアが去って行ったとき、グイドはまだ、「なぜ?僕が何をしたというのだ・・」と頭を抱えているのですが(笑、男性って本当にそんなものかも)、常に優しく彼の背後にいた妻のルイザが切れて去って行った時、彼は本当にガラガラと精神力が崩れていくのです。。愛人のカルラ(ペネロペ・クルス←もちろんですがかなりのインパクトです)とも行き違い自殺未遂をさせてしまう。もうボロボロのグイド。

けれどまあ・・・立ち直るのです。数年後に。そのころ、妻のルイザは離婚して女優に復帰して人気を得ていて。グイドを励ましに訪ねてくるのが、彼よりもだいぶ年上なのでしょうね、ずっと映画で組んで互いに信頼と友情で結ばれている風の、スタイリストのリリー(ジュディ・デンチ)。きっと、女性ならば見ていると感じるのでしょうけれど、このリリーは、だいぶ年上だし戦友のような存在ゆえに、グイドにとっては恋愛対象ではないのですが、恐らく彼女のほうはずっと、表現しないまま彼を愛していると思われる。さりげないシーンや会話から、それが滲んでいます。けれど決して最後まで気づかれないし、気づかれなくていいと思っているような切なさがある。

ジュディ・デンチはイギリスを代表する名女優と言われていますし、監督のロブ・マーシャルが「まさか出てくれると思わなかった」と言っていますが、ちょっとした脇役ながらに凄く存在感があるのは彼女の持っている貫禄でしょうね。それでいて出過ぎることもなく、リリーの抑えた感じ、あくまでも仕事する仲間として彼を支える役目に徹していて、切なさをぐっと理性で抑えているような風情も、とても素敵でした。

「ぐっと抑える」系が好きなので、私はこのリリーと、クラウディアにとても好感。同じ「抑え」系でも妻はやはりダメですね、守られ囲われる立ち場の中で抑えるのは、ダメだ。。見ているだけで苦しい。同じ土壌で仕事をして成功している分だけ、クラウディアやリリーは「切なさ」で済むけれど、妻のルイザはそうはいかない。だから、天変地変のように献身が怒りに変わる。けれど本当に、男性たちにとっての理想の世界を絵に書いたような配置図です。清楚で安心できる良妻、刺激的で愛らしい愛人、常に分かってくれる理解者の年上の仕事仲間、永遠のミューズ、その逆の娼婦としてのアイコン、そしてピンチの時に帰る場所としてのママ。。。イタリア男性って凄くマザコン、もとい母を愛するそうです。

そうそう、舞台版には居ないのかな?ケイト・ハドソン演じるアメリカ人のファッション記者ステファニー。ブロンドで若く、程よく知的で程よくそうでもない(笑)。きっと理想的な「ちょっと遊ぶ」浮気相手のようなイメージなんでしょうね。彼女に関してはひたすらのスパイスで、悲哀や怒りなどは無いのです。本人も遊びで近づいているような。どうもイタリア人がイメージするアメリカ女性はそういうもののようです。(それこそ理想化かもだけど)

ナイン(9)というのは、9歳のサラギーナのエピソード、つまり監督の少年時代の「性の目覚め」から来ているタイトルなのでしょうね。。中二病ならぬ、小3病。さすがイタリア男は早いです(笑)。

・・と、女性目線ではこんな風に見れますが、さっきも書いたように私はどうも、グイド自身にもっとも共感して見ていた気がします。芸術への賛美とその創造者であることと、女性を愛でる(精神的に)ことと、そしてセクシャリティが、どうしてもごっちゃになってしまうような感覚というのは、今生ではありませんが、過去生の記憶なのか他人事ではない感じ。寧ろ、今生女性として生きているのにどうしてそんな感覚が?というくらいに自分の中にあります。芸術や創造が、好きだからかもしれません。

誰が見ても、グイドの姿は憎めないのではないかな。若い女性はイヤかもしれないけど。男性たちと、ある程度、オトコのサガを理解した年齢層の女性たちには、仕方ないな&可愛いな&哀れだな ・・それを見事にダニエルが演じているし、映画全体がとにかくおしゃれ。スタイリッシュ。メイキング見てびっくりしたのは、最初から皆さん、歌やダンスが出来る役者さんなのかな?と思いきや、この映画のために特訓してここまでに磨き上げたとのこと。世界的な俳優になるような人々は、やはり精神力と、潜在能力が人並みはずれているのでしょう。

ペネロペの歌とロープダンス?など圧巻ですし、いつものような迫真の演技と共存していて、いやはや凄い女優だ。。ケイト・ハドソンは、初めて見た女優さんだったので「こんなに唄って踊れるから歌手をキャスティング?」と思ったら、そうではなかった。でも凄い歌唱力です。(母は女優のゴールディホーン、父は歌手だそうで・・DNAですかネ)






そして・・・もうひとつ私が思ったのは、私もそんなわけで自分の中に両性を持っているようなメンタリティが昔からあるせいか、『ガイアナ神謡集』などでもかなり、両側の性の良いところもみっともないところも、描くようにしているというか、自然とそうなっていると自分で思っているので、この映画で両方に平等に注がれる愛の視点に、とても中性的なものを感じたんですよね。そしたらそしたら、ロブ・マーシャル監督はゲイであることを公言し、パートナーのジョン氏はこの映画でも一緒に振り付けの仕事をしているとか。

なるほど〜〜納得です。
やはり中性の視点でした。とてもバランスが良く、主人公グイドにも、登場するすべての女性たちにも、理解と愛の眼差しを感じるのは、監督がそれぞれの人間を性を越えて、それでいて性のサガをしっかり踏まえて見据えているからであろう。。。と。いや、映画人にゲイの方は本当に多いです。監督や脚本家、舞台の世界も。ある意味でそういう才能のあるユニセックスな人々が、文化を通じて人類を次の時代へ。。導いているのかもしれません。映画業界は本当に、ライトワーカーたくさん居ると思ってます(その逆もですが・・笑)。

イタリアに行きたくなりました。
「トスカーナの恋人」「食べて祈って恋をして」・・古くは「ローマの休日」(それこそフェリーニ監督かな?)・・欧米人は、イタリアの芸術性とロマンティックな空気が大好きなのでしょうね。

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はい。
こんな記事を書こうと思っていたら、今朝、滅多につけないテレビを付けなさいと「テレビの天使」が(笑)。朝イチを見ていたら、明日の夜10時にNHKで『2030年の家族』をテーマにした番組があるそうです。恐らく、セクシャリティやジェンダーに関係ないさまざまな家族がその頃には普通になっているだろうという内容のよう。どこまで深いかは分かりませんが、見てみようと思います。

「パパ達、ママ達、パパだけ、ママだけの時代」というタイトルで記事を書こうと少し前から思っていたのですが、まずは明日、それを見てみて、書けそうだったら書こうかな。^^

ではでは

Love and Gratitude,
Amari